「なぜ無にするような監督を呼ぶのか」
カイオのフチボルを不安視するファンが現フロントに思うところを上手く言い得た言葉がネット上にあったので、自分なりに考えて意見してみます。「無」に対するものを、「スタイル」として続けます。
「スタイル」が監督のイメージによってもたらされる限り、どこまでいっても「スタイル」は「無」の上に成り立つ、砂上の楼閣でしかありえず、監督が代われば、「スタイル」も転々と代わる。‥逆に言えばクラブ主導で「スタイル」をイメージする時、そのフチボルは文化的な一面を備え歴史を刻み始めると考えるわけであります。
これに例外があるとすれば、目の前のフチボルを絶対的な観客数で興行の成功として後押しすることでしょうが、生憎「無」にされたフチボルには、その力がないと評価されたと言わざるを得ず、これは勿論運営側に帰するべき問題ではありますが、カイオ体制を不安視するファンの方々にもその一因があると考えるのが妥当じゃないでしょうか。
皮肉にも「スタイル」の変更を引き止められず、寧ろそれを早めた結果になったと言っても過ぎないと思いつつ、試合評に止まらず興行更には文化としてのフチボル、ヴィッセルの新しい歴史を作ろうと踏み出したクラブへの批判にまで至るカイオ評に苦々しい思いを抱きながら目を白黒させてる昨今であります。
勿論ネット上で語られる言葉は、その総てには程遠い極々一部であることは周知でありますが、同じくその影響力も見て流すこともできず、私の様に見守っているファンも在ることを皆さんに知って頂きたく、「なぜ無にするような監督を呼ぶのか」という言葉を目にしたのを契機に意見した次第で、皆さんには色んな意見を踏まえた上で、こういう機会に、考え、感じる事でヴィッセルをより一層身近なものと考えて頂ければと思ったりします。
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